高齢者が伴侶を失うとき

高齢者の在宅医療に関わっていると、老夫妻のどちらかが亡くなるということはとてもありふれた出来事です。

高齢の方が亡くなることは、ある意味「当たり前のこと」「誰でも経験すること」「みんなが乗り越えていること」というふうに周囲はとらえがちになるのではないでしょうか。

たしかに、多くの方はこれまでに築いてきた人間関係やサポートのネットワーク、また積み重ねてきた死生観に支えられて悲しみながらも生活を再構築されていくことも多いと思います。

ですが、それはグリーフがないということではありません。

たとえ仲が良くなかったとしても、離れて暮らしていたとしても、家族というのは絶妙なバランスを保っているものではないかと思うのです。

私、蒔田が父を亡くした時に、グリーフサポートせたがやの相談サービスを受けた時にかけてもらった言葉がそれをよく表しています。

「たとえば、4本足の椅子が1本足を失えば、ぐらぐらしますよね。いま、突然足を亡くしてその不在に揺れている状態なのかもしれません」

生活や人生の中で家族のメンバーにはそれぞれの役割があり、たとえただ生きていて「想ってくれている」だけの存在でも、人にとっては大きな存在です。

それを失った時、残された人はその役割を果たす人がいない状態で生きていかなければなりません。

私が出会った方の中でも、高齢の伴侶を亡くしたのちに外出をしなくなったり、社会との接点が少なくなったり、入浴や身だしなみを整えなくなったりするセルフネグレクトのような状態になる方がいました。

そんな時、ケアマネジャーや看護師は「入浴ができる」ことや「人との交流ができる」ように、通所サービスや訪問系サービスでの清潔援助などを計画することが多いですが、それはうまくいかないことが多いように感じます。


このような状態にある場合。

私自身の死別経験から推察すると、「ただ亡くした大事な人を想っていたい」「この気持ちをわかってくれる人がいない」「それならば一人で悲しんでいたい」という気持ちでいるのかもしれません。

そのような時、死別当事者が必要としているのは安全で安心できる関係性です。

脆弱な状態にある心情を理解してくれ、周囲を安心させるための気に進まないケアを強要されない関係性をいかにつくれるのか。

自立支援のために「がんばってもらう」ケアマネジメントの考え方だけではなく、生活を再構築するためにあえて一緒に立ち止まる時間をつくることも大事なケアのひとつなのではないでしょうか。

父を見送ったのち、オホーツク紋別空港から飛び立った飛行機での景色。

対話する訪問看護ステーション

目黒区自由が丘の訪問看護ステーションです。

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